ニートの直観

大学1浪2留のダメ人間ワイが普段考えていることを書いていく。共感してくれたらうれしい。

人生の難易度を下げるための5つのスキル

ニートの諸君は、人生はハードモードでクソゲーだと思っているけど、おまいらにも原因があるぞ。

 

結局、人生はクソゲーであることには変わりはない。

 

あきらめろ。異世界には行けないぞ。

 

かならず、良いことのあとにその分だけ悪いことが起きる。

だが、コントロールしないで、人生に見切りをつけて、家に引き籠っては、テキトーに過ごすことはすなわち、楽をしていることになる。

 

結局、悲劇のヒロイぶったところで、現実的に楽をしているのだから、その分のしわ寄せはとてつもないものになるだろう。

 

大事なことは、人生をできる限りコントロールし、苦楽の波を減らすことだ。

 

だが、長い引きこもり生活をしていくと、どうこの状況からだ脱出していいかわからなくなるだろう。

 

そこで、元ニートで、自称・ニートのワイがクソゲーという名の暴れ馬・『JINSEII』をできる限り抑えるコツを紹介する。

 

そのコツこそ5つの簡単なスキル、いわゆる「BIG5」だ。

 

でも、そんな画期的なことを言うつもりはない。

みな、小学生のころに学んでいるごくごく基本的なことだ!

それでは書いていく。

 

①食事

 炭水化物は極力抑えて、バランスよく食った方がいい。結構、何を食べているかが心身を想像以上に左右する。菓子パンやジャンクフードの食べる量を制限して野菜とか肉とかを食べた方がいい。

 

②運動

 ランニングがおすすめ。週1でもいいから、外をジョギングするなりした方がいい。

筋トレもおすすめだぞ。『プリズナー・トレーニング』とかを読むとやりたくなる。徐々に継続していき、週4まで安定してやれたら最高だな。

運動していると、自殺願望とか、被害妄想とかの脳のゴミが一掃されるから絶対やれ。

 

③睡眠

 これは基本だ。結局、夜更かしとかしていると、その日一日が無駄になる。ちゃんと寝る時間と起きる時間を決めておこう。8時間くらい寝たら起きよう。

 

④射精管理

 一番難関だが、一番必須なスキル。結局、オナニーばかりしていると、人生がつまらなくなること必至。男にとっては大変だが、週3日くらいに抑えられるといい。

 

⑤対人関係

 最後は人との繋がりだ。ずっと孤独でいると、自殺率が上がる。やはり、だれかと話すことは大切だ。discordという便利なチャットサイトがある。これで誰かとコミュニケーションを取ろう。きっと気晴らしになるに違いない。

 

結局、これらは小学生の頃の生活環境に近づけようという試みだ。

小学生の頃を思い出してもらいたい。親や学校の締め付けもあっただろうが、規則正しい生活をしていたし、自動的にこれら5つのことを行っていた。だから、充実した時間を過ごしていたと思う。

自由なことは素晴らしいことだが、その中に規律やルールを入れていかないと、だらけすぎて、結局寂しい人生になってしまうのではいかと思う。

 

これらを抑えれば、何か人生にトキメキを取り戻せるに違いない。

 

まあ、一気にやるのは不可能だ。徐々に手を付けられればいいかなと思う。

 

 

 

 

 

 

メンタルを強くするにはどうすれば良いか考えた。

現代社会では、スキルだの、個性だの、資格だの、能力だの、いろいろ騒がれているけど、最も重要なスキルは「メンタルの強さ」ではないだろうか。

 

ここでいう、「メンタルの強さ」とは、

 

・自分をコントロールする力

・他者の悪意に対抗できる力

 

の二つを指すし、両方兼ね備えた人こそが「メンタルの強い人」でだと思う。

ようは、「他者からの心ない言葉」や「新しい環境や物事に対する恐れ」に傷つかない、いや、傷ついても前進できる打たれ強さこそが最も重要なのだ。

ニートになる人々は、メンタルが弱い。それは、①、②とも欠落しているからではないか。

無理もない。どんなに才能があろうが、頭がよかろうが、身体能力があろうが、「メンタルが弱い」というたった一つに欠点だけで、全てが上手くいかなくなるからだ。

何をするにせよ、社会で活躍するとは、必然的に「メンタルの強さ」が必須となるのだ。

 

メンタルを強くするにはどうすればいいか。

頭でっかちのニートであるボクが考えたのは、2点。

 

①前日に予定していたことをしっかりとこなす。

youtubeのコメントに自分の意見を発信する。

 

 

①について、

メンタルの弱い人々は怠け癖が強いと思う。なら、逆をやればいい。徹底的に「言行一致」の精神を貫くべきだ。

たとえば、

明日は9時に起きると決めたら、実際に9時に起きる。

明日はランニングを10分間すると決めたら、実際に行う。

明日はオ〇ニーをしないと決めたら、本当にしない。

 

このように、感情や気分を軸にするのではなく、予定した「事実」や「原理原則」を軸に意思決定するのだ。

できたら、スケジュール帳に〇をし、できなければ×にする。

一週間ごとに〇の数の目標値を決め、その通りの「数字」を出すのだ。

その目標値に1つでも届かなかったら、徹底的に自分を責めるべきだ。許してはならない。

コツコツと確実に増やすことにより、徐々にセルフコントロールが身につくのだ。

 

 

②について、

ここでは、youtubeにコメントする。

だが、ただのコメントではない。すでに書かれているコメントに返信して、わざと正反対のコメント書くのだ。すると、返信が来るだろう。当然、反論のコメントや汚い罵倒のコメントが来る。それに耐える。そして、また、他のコメントにする。

ここで、ポイントなのは、あくまで他者に攻撃されることに慣れること。

よって、再び反論してはならない。一回言われたら止めにし、他のコメントに移る。これ以上やると、精神的に限界がくるからだ。

 

調子にのったコメントには、同じように誹謗中傷じみたことを書いてもいい。

匿名のコメントに匿名で返しても訴えられることはない。「しね」くらい言ってもいい。もちろん、その返信コメントもしっかりと目を通す。言って逃げてはならない。

 

自分の中にある偽物の倫理観など捨てろ。

それは、過去強者たちによって植え付け得られた都合のいい幻想だ。

捨てろ、燃やせ、破壊せよ。

ズタズタに引き裂き、その破片を投げつけ、そいつらの返り血を浴びるのだ。

 

さぞ、すばらしいものが見れるだろ。

 

ただ、名前を出している人やyoutuberや動画主に対する誹謗中傷はやめる。それは道徳的にも法的にも危うい行為だ。

また、2chは特定される可能性があるので、大人しくすること。

 

このように、他者に自己を否定されることにより、自分を客観的に見れるし、その攻撃を他人に向けることができるようになるのだ。

一応にして、ニートは他人を傷つけることを恐れる。

 

だが、社会は戦場なのだ。

 

他者を傷つけ、傷つけられの連続が社会なのだ。

 

そもそも、社会とは、道徳的共同体などではない。歴史を振り返れば分かるが、自分の安全を守るための、利害関係の集団でしかない。

 

よって、利害の不一致が起きた場合、攻撃されることも、することもありうる。

人を徹底的に責めるスキルがなければ、アマゾン地帯を裸で歩くようなもの。武器を持たなければいならない。優しいだけでは殺されてしまう。

 

社会生活とは、国際関係と同じ、策や論理や計算がものを言う地政学の世界なのだ。

youtubeのコメントに参加することは、これを学ぶのにいい機会になると思う。

 

アイデアをメモすると忘れる現象

文章を書くって行為と自分はあまり相性が合ってない気がする。

 

自分がブログで文章を書くときって、ふっと何かが沸いて降ってきて、それが一気に膨張して、頭がいっぱいになっていって、そして、書かずにいられないという流れがある。

 

でも、それは一晩寝ると、それはすっかり忘れていて、自分が一体何が書きたかったんだろう?

あれは一体何だったんだというふうになる。

 

それはパソコンの近くで起きるとは限らず、むしろ、文章を書けるような環境ではないようなところで起きる。

たとえば、電車の中とか、アルバイト途中とか。

 

で、アイデアをメモしてとっておこうとしても、後日そのメモを見るなり、「このフレーズは何なんだ?」というような、まるで他人が書いたもののように感じる。

 

もちろん、使い物にならない。

そのフレーズを見て、まるで完結した一つの物語であるように、そこでストップしてしまう。

最近はこんなことばかり繰り返している。

行動と思考が一致してなくてつらい…

 

この現象って何か名前ないのか?

メモするからよくないのか?

というか、作家の人ってすごいな

 

そんな歯がゆい思いをしている今日この頃です。

オナ禁なんて信じるな

今日は、巷で言われる「オナ禁効果」について語っていきたい。

 

オナ禁効果は嘘か

ボクは、オナ禁を否定しない。

ただ、巷でよく言われるような、

 

超人になれるだとか、

 

 サイヤ人効果だとか、

 

 死ぬほどモテるようになるだとか

 

そういう類は、「単なるビジネストーク」か、「受け売り言葉」なだけで、実際は大した効果ではないと思う。

 

根拠として2つある。

1つ目は、人の体感に差がありすぎること。最終的に、気持ちが大事だ的な話になる。

 2つ目は、ボクは、かつてオナ禁を30日やったことがあるが、その時精神的に不安定

で、そこまですごい何かになったわけではない。

 結局、こういう話をする人々は、「金稼ぎが目的の詐欺師」か「それに騙されている人々」のどちらかだろう。

 「すごい何かになれる」という幻想を抱かせるのだ。

 以上のような、オプティマル・ヘルス的(能力開発としてのオナ禁)なオナ禁はほとんど詐欺だと思う。

理由は単純だ。続くわけないからだ。

結局すごい何かになりたいなら、すごい何かになるために、泥臭い努力するしかないのだ。

 

・正しいと思うオナ禁のアプローチ とその方法論

ただ、ミニマム・ヘルス(欠陥を克服するオナ禁)的なアプローチのオナ禁は正しい。

それは、単純に、依存症を克服することそのものだ。

 

現在、インターネットの普及に加え、スマホの台頭により、ポルノがより身近になった結果、性依存症が増加している。

これについては、以下の動画を参考にして欲しい。

https://www.youtube.com/watch?v=wSF82AwSDiU

それは、エロ動画を見て、毎日複数回オナニーしないと気が済まない男性が増加しているということだ。

 

性依存症は、薬物依存と同じだ。

それは、その人本来の持つ能力や気力を蝕んでいく。

よって、これを克服し、せいぜい平均(リア充は週3回ほどらしい)くらいにまでコントロールできるようにし、そのエネルギーを「対人関係克服」に回すことで、人生が大幅に生きやすくなるはずだ。

 

 

ボクも性依存症と戦っているが、以下のやり方で徐々に回復しつつある。

ただ、すごく現実的で、泥臭いやり方だ。優しいものではない。

 

■ステージ①■ 一週間単位で「自慰しない日」を4日まで増やす。

一日の回数とかはどうでもいい。大事なのは、「自慰する日」を「自慰しない日」が上回り、それの継続を目指すことだ。 

《例》

月 がまん(>_<)

火 がまん(>_<)

水 リセット(*´д`*)ハァハァ

木 がまん(>_<)

金 がまん(>_<)

土 リセット(*´д`*)ハァハァ

日 リセット(*´д`*)ハァハァ

 

徹底的に守ることが大事。火曜日、金曜日あたりがきつくなる。だが、一回でも指定日以外にリセットしたらいけない。それは、意味がない。苦しめ。苦しんで、日数くらいは克服するのだ。

これが安定して、4週間連続を維持できるようになったら。

 

■ステージ2■ 各週3日の自慰回数を減らしていく。

 たとえば、

水➡3回

土➡3回

日➡2回

合計8回

だとしたら、

 

一週間のトータルを1回ずつ減らすようにして、週3回を目指す。

ここまで、達してあとは、4カ月ほどキープすれば、依存症は克服されたと言える。

大事なのは、この2段階の順番を守ることだと思う。

別に、超人になるためではない。

人生の悩みの根源の大半は「自慰のし過ぎ」にあると悟っただけの話だ。

 

ただ、自慰行為は出家するくらいしないと、やめられないので、それはあきらめよう。

 

以上だ。

 

「この世は監獄」説の効用

この世界は監獄だと思う。

でも、別にネガティブになったり、自暴自棄になっているわけではなく、事実として言っているだけだ。

ただ、良い点もあると思う。

 

①おいしいことに対し、適度にあきらめがつく

②人をある程度許せる

③悪いことが起きても、ある程度耐えられる

 

①おいしいことに対し、適度にあきらめがつく

 この世界は袋小路のようなものだ。

どんなに物事を改善したところで、どんなに苦難を乗り越えたところで、その人の全体的な不幸の総量は変わらない。

どんなに文明を発展させて、便利さを追求しようしても、失うものも同じくらいあるはずだ。

人が格上の人間をうらやむのも、その人の一部分しか見れていない証拠だ。

その人が「すごい人間」になるまで、その代償として苦しみを味わっているはずだ。

「うらやむ人間」はうらやむ苦しみを代償に、努力しない快楽を味わっているはずだ。

結局、みな平等に罪人であるので、みな等しく懲らしめられるのだ。

でも、どっちみち同じだと思えば、変な上昇志向に惑わされることもないし、変に嫉妬することもないし、おいしい話に騙されることもなくなる。適度にあきらめがつくからだ。

 

②人をある程度許せる

 この世は監獄である。

ということは、この世界にいる人々は、みな罪人である。

ということは、ろくな奴がいないということになる。

この世界に善人よりも悪人が多いと感じるのも、悪の力が善い力を常に上回るのも、社会を構成する人間の本質が悪だからである。

もちろん、それは私にも当てはまる。ここが重要だ。ここを理解しないと、「監獄説」は意味がなくなる。

私も同じ罪人であるのだから、何か人から傷つけられるようなことをされても、ある程度は許せるようになる。

ある程度は…。

一方で、私は罪人だと認識することで、必要性があれば、相手を傷つける勇気も持てる。相手を徹底的に叩きのめさないといけない場合もある。

自分を善人だと信じてしまうと、これらのバランスが崩壊する。

通り魔や引きこもりは、その最たるものだ。

よって、不幸の波をより最小限にする利点があると思う。

 

③悪いことが起きてもある程度、耐えられる。

この世界は、一分の隙もないほど徹底された等価交換の世界だ。

 「病気にならない快」を得るために、「ダイエットする苦」を味わい

「暴飲暴食する快」を得るために、「病気になる苦」を味わう。

どっちみち、苦しむのだ。

となると、大半の不幸や苦しみは自業自得であると分かる。

「学校や会社に遅刻して怒られる」のも、「夜更かし」したからで。

「借金地獄にはまる」のも、「お金を使う快にはまった」からである。

つまり、人生は、

「今苦しんで、不幸を分散させる」のか、

「今楽をして、大きな不幸に遭う」のかの選択の連続である。

こういうことを知っておけば、動きにメリハリが出るし、穏やかに過ごせるのだ。

 

また、この2通りの選択は、価値観の問題であり、どちらが正しいかは存在しない。

存在するのは、「この世は監獄であり、懲役おおよそ80年」ということだけだ。

そこに、個々の事情は存在しない。「懲役を受ける」それだけだ。

我々は、結局、予定された苦を味わい尽くして、この世から釈放されるしかないのだ。

 

 

        

 

「ラノベ作家」VS「絵師」目指すならどちらがいいか考えてみた

おこがましい記事であれだが、数多くのINFPやニートにとって、「絵師」と「ラノベ作家」は2大憧れであることは言うまでもないだろう。

もし、目指すとするらな、自然と小さい頃から何かしら没頭して、その延長戦上でプロになっていると思う。好きな方を目指すのが自然ということだ。

 

ただ、「20代の成人」が

これら2つに好き嫌いの偏りのない条件で、

ゼロから始めた場合、

どちらがプロになるのが難しいかを考えたのが今回のテーマだ。

 

ただ、「プロになる」の定義は、

①年収の額は関係ない。

②あくまで、コンスタントに雑誌やサイトに掲載されるレベル。

 

さて、結論から言うと、ボクは「絵師」の方が難易度が低いと思う。

なぜなら、「ラノベ作家」は文章で表現するため、敷居が低く、「絵師」はイラストで表現するため、敷居が高いからだ。

 

ラノベ作家」は敷居が低い分、志望者数や競争率が高く、その分天才が多数紛れ込んでいるため、単純に母体数の問題で、プロとしての地位を築くことはまあ、不可能だ。

 

一方、「絵師」であれば、最初は死ぬほど苦労するが、自分さて打ち勝ち、峠を越せば、プロになれる資格を得られるだろう。

 

よって、ここでは、

ラノベ作家」➡「数字や確率との闘い」=「コントロールできる部分が少ない」

「絵師」➡「自分との闘い」=「コントロールできる部分が多い」

 

したがって、「絵師」の方が簡単だということになる。

 

ただ、絵師にも困難がある。

絵師の場合、敷居が高い分、初学者は死ぬほど苦労することだろう。

ニート諸君であれば、だれでも「萌え絵」を描いたことがあるだろうが、最初はマジで落書きにすらならない。

あれを芸術として昇華するのに多大な犠牲を必要とする。

で、結局プロとして成功する人は、小さい頃からやっている。

大人から目指すには、彼らがかけた時間と同じくらいかける必要がある。

だが、仕事だなんだと大人は障害が多い。

つまり、挽回できる「すさまじい精神」が必要。

だが、「すさまじい精神」があれば、最初からプロになっていた。

したがって、「すさまじい精神」のない人間は現実的に不可能ということになってしまうのだが…

 

もう一つ理由を挙げるなら、

ラノベ作家」は「絵師」よりも需要数が低いとも言える。

なぜなら、twitterを見れば分かるが、自分の小説を宣伝するよりも、イラストをのっけた方が、フォロワー数やいいね数が圧倒的に稼げる。それほど、現代はビジュアル社会なのだ。自分の小説を宣伝できる環境が非常に限られるということだ。

 

よって、総合的に見て、「絵師」の方が簡単である。

 

当然だが、絵師だって簡単ではない!目指すのであれば、多大な「金」、「時間」、「得てきたもの」を犠牲にすることになるし、やはり現実的に無理だ。

 

この記事はあくまで、一つの理屈として考えてほしい。

以上!(`・ω・´)

 

自殺について考える。

自殺について、ボクは2つの矛盾する見解を持っている。

 

一つ目は、自殺は「悪」だとする立場。

なぜなら、この世界は監獄だという前提で考えると、自殺することは「脱獄」であり、つまり、「刑期」が伸びるからだ。

これは、どちらかというと、直感的で、宗教的な観点の話であり、非現実的だ。

けれど、科学や理性の力では、この世界のことの数%しかわかっていないという現実があるのなら、そう考えざる負えない自分もいる。

科学や理性は、世界の事象に対して、

「どのように」を提供してくれるが、「なぜなら」を提供してくれない。

INFPであるボクが知りたいのは、後者であり、科学が答えてくれないのなら、そう考えざる負えない。

 

2つ目は、「自殺」は善であるという立場

善であるという考え方は極端だが、少なくとも「悪ではない」とする考え。

そもそも、自殺が悪であるという客観的な事実がない。

以前なら、救いとしてこの立場にいたし、この現実という枠内で捉えれば、こちらの方が合理的に見える。

 

けれど、よくよく考えると、前者の方が理性的で、後者の方が感情的な感じがする。

なぜなら、自殺者は例外なく心を病んでおり、自殺志願者が自殺を肯定するのも、「死ぬ」こと肯定したいという感情的な根拠づけに見えるからだ。

自分もかつて、自殺を試みようとした経験があるので、なんとなくだが想像できる。

 

したがって、

「理性的」=「芯がある。一貫性のある思考」

「感情的」=「芯がない。移ろいやすい思考」

と考えると、どうしても前者の方が正しいと言わざる負えない。

なぜなら、どうしても冷めた頭で考えると、「この世は監獄である」という謎の確信がますます帯びてくるからだ。

 

どんなに頑張っても、努力しても、幸福を望んでも、限界があり、不幸が起きて、ゼロの状態に戻そうとするのが人生の常である気がする。

以前にも書いたけど、ボクは、「不幸の総量は決定されている」といった。

結局、人生とは登山みたいなものなのだ。

どんなルートで通ろうが、頂上までの標高は変化せず、結局頂上に至るまで人生は終わらない。

 

ここから見るに、人生とは罰を受ける過程であり、人間は罪人であり、この世界は監獄である。

幸福が時折来るのは、人間の気が狂わないためだろう。

気が狂ったら、罰にならない。

こう考えれば、この世界にロクな人間がいないのも、どんなに素晴らしい人間に見えても、どこかに狂気が潜んでいるのも、納得がいく。

どんなに、凶悪な人間でも、どんなに心優しい人間でも、どんなにひどい障害を負って生まれてこようと、この世に等しく混在させられ、そして、死も生も選べないのも、

より大きな視点でみれば、皆等しく「罪人」だからである。

そんな区別など、五十歩百歩なのだろう。

 

ボクは仏教の因果応報を完全には信じない。どちからといえば、老荘思想寄りだ。

 

「凶悪なサイコパスが、心優しい少女を誘拐監禁し、10年間に渡って虐待し、残酷に殺す」

という事象と、

「倫理観の高い警官が、電車にはねられそうになった酔っ払いの救出の身代わりとして、殉職する」

という事象は、等しい関係にある。

 

どちらが正しく、どちらが間違っているかは存在しない。

なぜなら、「凶悪なサイコパス」も「心優しい少女」も「倫理観の高い警官」も「酔っ払い」も等しく刑期おおよそ80年の罪人だからである。

善悪は心と現実の緩衝材である。

そんなものは、罪にくらべれば、ほんのわずかなものでしかない。

 

人生は戦いの場どころではない。

人生は一方的な蹂躙の場である。

ただ、唯一自ら苦しむことで、不幸の波を軽減することはできる。

 

こういう「この世は監獄説」の信憑性が年々高まっているので、ボクは自殺はしない方がいいと思います。

けれど、どこかで「死にたい自分」を肯定する自分がいる。

だから、矛盾している。

たぶん、自殺したら、めんどくさいことになるだろうね。(`・ω・´)