「この世は監獄」説の効用
この世界は監獄だと思う。
でも、別にネガティブになったり、自暴自棄になっているわけではなく、事実として言っているだけだ。
ただ、良い点もあると思う。
①おいしいことに対し、適度にあきらめがつく
②人をある程度許せる
③悪いことが起きても、ある程度耐えられる
①おいしいことに対し、適度にあきらめがつく
この世界は袋小路のようなものだ。
どんなに物事を改善したところで、どんなに苦難を乗り越えたところで、その人の全体的な不幸の総量は変わらない。
どんなに文明を発展させて、便利さを追求しようしても、失うものも同じくらいあるはずだ。
人が格上の人間をうらやむのも、その人の一部分しか見れていない証拠だ。
その人が「すごい人間」になるまで、その代償として苦しみを味わっているはずだ。
「うらやむ人間」はうらやむ苦しみを代償に、努力しない快楽を味わっているはずだ。
結局、みな平等に罪人であるので、みな等しく懲らしめられるのだ。
でも、どっちみち同じだと思えば、変な上昇志向に惑わされることもないし、変に嫉妬することもないし、おいしい話に騙されることもなくなる。適度にあきらめがつくからだ。
②人をある程度許せる
この世は監獄である。
ということは、この世界にいる人々は、みな罪人である。
ということは、ろくな奴がいないということになる。
この世界に善人よりも悪人が多いと感じるのも、悪の力が善い力を常に上回るのも、社会を構成する人間の本質が悪だからである。
もちろん、それは私にも当てはまる。ここが重要だ。ここを理解しないと、「監獄説」は意味がなくなる。
私も同じ罪人であるのだから、何か人から傷つけられるようなことをされても、ある程度は許せるようになる。
ある程度は…。
一方で、私は罪人だと認識することで、必要性があれば、相手を傷つける勇気も持てる。相手を徹底的に叩きのめさないといけない場合もある。
自分を善人だと信じてしまうと、これらのバランスが崩壊する。
通り魔や引きこもりは、その最たるものだ。
よって、不幸の波をより最小限にする利点があると思う。
③悪いことが起きてもある程度、耐えられる。
この世界は、一分の隙もないほど徹底された等価交換の世界だ。
「病気にならない快」を得るために、「ダイエットする苦」を味わい
「暴飲暴食する快」を得るために、「病気になる苦」を味わう。
どっちみち、苦しむのだ。
となると、大半の不幸や苦しみは自業自得であると分かる。
「学校や会社に遅刻して怒られる」のも、「夜更かし」したからで。
「借金地獄にはまる」のも、「お金を使う快にはまった」からである。
つまり、人生は、
「今苦しんで、不幸を分散させる」のか、
「今楽をして、大きな不幸に遭う」のかの選択の連続である。
こういうことを知っておけば、動きにメリハリが出るし、穏やかに過ごせるのだ。
また、この2通りの選択は、価値観の問題であり、どちらが正しいかは存在しない。
存在するのは、「この世は監獄であり、懲役おおよそ80年」ということだけだ。
そこに、個々の事情は存在しない。「懲役を受ける」それだけだ。
我々は、結局、予定された苦を味わい尽くして、この世から釈放されるしかないのだ。