ニートの直観

大学1浪2留のダメ人間ワイが普段考えていることを書いていく。共感してくれたらうれしい。

自殺について考える。

自殺について、ボクは2つの矛盾する見解を持っている。

 

一つ目は、自殺は「悪」だとする立場。

なぜなら、この世界は監獄だという前提で考えると、自殺することは「脱獄」であり、つまり、「刑期」が伸びるからだ。

これは、どちらかというと、直感的で、宗教的な観点の話であり、非現実的だ。

けれど、科学や理性の力では、この世界のことの数%しかわかっていないという現実があるのなら、そう考えざる負えない自分もいる。

科学や理性は、世界の事象に対して、

「どのように」を提供してくれるが、「なぜなら」を提供してくれない。

INFPであるボクが知りたいのは、後者であり、科学が答えてくれないのなら、そう考えざる負えない。

 

2つ目は、「自殺」は善であるという立場

善であるという考え方は極端だが、少なくとも「悪ではない」とする考え。

そもそも、自殺が悪であるという客観的な事実がない。

以前なら、救いとしてこの立場にいたし、この現実という枠内で捉えれば、こちらの方が合理的に見える。

 

けれど、よくよく考えると、前者の方が理性的で、後者の方が感情的な感じがする。

なぜなら、自殺者は例外なく心を病んでおり、自殺志願者が自殺を肯定するのも、「死ぬ」こと肯定したいという感情的な根拠づけに見えるからだ。

自分もかつて、自殺を試みようとした経験があるので、なんとなくだが想像できる。

 

したがって、

「理性的」=「芯がある。一貫性のある思考」

「感情的」=「芯がない。移ろいやすい思考」

と考えると、どうしても前者の方が正しいと言わざる負えない。

なぜなら、どうしても冷めた頭で考えると、「この世は監獄である」という謎の確信がますます帯びてくるからだ。

 

どんなに頑張っても、努力しても、幸福を望んでも、限界があり、不幸が起きて、ゼロの状態に戻そうとするのが人生の常である気がする。

以前にも書いたけど、ボクは、「不幸の総量は決定されている」といった。

結局、人生とは登山みたいなものなのだ。

どんなルートで通ろうが、頂上までの標高は変化せず、結局頂上に至るまで人生は終わらない。

 

ここから見るに、人生とは罰を受ける過程であり、人間は罪人であり、この世界は監獄である。

幸福が時折来るのは、人間の気が狂わないためだろう。

気が狂ったら、罰にならない。

こう考えれば、この世界にロクな人間がいないのも、どんなに素晴らしい人間に見えても、どこかに狂気が潜んでいるのも、納得がいく。

どんなに、凶悪な人間でも、どんなに心優しい人間でも、どんなにひどい障害を負って生まれてこようと、この世に等しく混在させられ、そして、死も生も選べないのも、

より大きな視点でみれば、皆等しく「罪人」だからである。

そんな区別など、五十歩百歩なのだろう。

 

ボクは仏教の因果応報を完全には信じない。どちからといえば、老荘思想寄りだ。

 

「凶悪なサイコパスが、心優しい少女を誘拐監禁し、10年間に渡って虐待し、残酷に殺す」

という事象と、

「倫理観の高い警官が、電車にはねられそうになった酔っ払いの救出の身代わりとして、殉職する」

という事象は、等しい関係にある。

 

どちらが正しく、どちらが間違っているかは存在しない。

なぜなら、「凶悪なサイコパス」も「心優しい少女」も「倫理観の高い警官」も「酔っ払い」も等しく刑期おおよそ80年の罪人だからである。

善悪は心と現実の緩衝材である。

そんなものは、罪にくらべれば、ほんのわずかなものでしかない。

 

人生は戦いの場どころではない。

人生は一方的な蹂躙の場である。

ただ、唯一自ら苦しむことで、不幸の波を軽減することはできる。

 

こういう「この世は監獄説」の信憑性が年々高まっているので、ボクは自殺はしない方がいいと思います。

けれど、どこかで「死にたい自分」を肯定する自分がいる。

だから、矛盾している。

たぶん、自殺したら、めんどくさいことになるだろうね。(`・ω・´)